諦観にみちた 花圃 豪奢な 権柄ずく 暗鬱な 気丈に振舞う 苑池 蔀度 桟唐戸 花頭窓 切妻屋根
檜皮葺き  宝形造 釣殿 禅刹 轆轤 漱清 巧緻 開枕 
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私は行く。同行者は少なくとも、案内人は信頼できる。
私は誇り高き交わりに加わっている。
さいは投げられた。
もう後へは引けない。
私は一歩踏み出したのだ。
心は決まった。
私はイエス・キリストの弟子になるのだ。
私はもう振り向かない。
力を抜かない。
歩みを遅くしない。
後へ引かない。
じっと立ち止まることもしない。
私の過去はあがなわれた。
私の現在には意味があり、
私の未来は保障されている。
程度の低い妥協的な生き方はもうやめた。
見えるものに頼る生き方、
すべすべのひざ、
色あせた夢、
鎖のついたビジョン、
この世的な話、
安っぽい施し、
ゆがめられたゴール・・・・。
私の目は向くべきところに向いている。
私の足取りは軽い。
ゴールは天国にある。
道は狭く、険しい。
同行者は少なくとも、
案内人は信頼できる。
私の成すべき仕事は明らかである。
私はあきらめない。
黙らない。
力を抜かない。
イエスのために生き続ける。
祈りつくす。
犠牲を払い切るまでは。
私は行かなければならない、
主が来られるまで。
ささげなければならない、
倒れるまで。
伝えなければならない、
すべての人が知るまで。
働かなければならない、
主が私を止められるまで。
そして、主が来られるとき、
私を探しだすのに苦労はしないだろう。
私の旗印は明らかだから。
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序詩 1941・11・20

死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥なきことを、
葉かげにそよぐ風にも

わたしは心苦しんだ。
星をうたう心で
すべて死にゆくものを愛さなくては
そして、わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵もまた、星が風に吹きさらされる。

詩集「空と風と星と詩」より
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八 隠されたる神 (前半部)
 ブランケという神学者の、「ルターにける隠されたる神」という論文は、小さな論文ですが、非常に面白いと思いました。「救者としての神も、隠されたる神であり、啓示は同時に被覆である」と、ブランケは言います。また、「被覆は啓示の仮定であるだけでなく、信仰の仮定である」と言うのです。また、「怒りは、神がみずからを隠すヴェールである」というのです。信じるものを、地獄に落とそうとするかのように、怒りのヴェールをかぶって接近する神に対して、信頼と従順とが要求されるのです。信仰とは、怒りの背後にある愛と真実の神を、信じて疑わないことだと、ルターは言うのです。
 この思想は、困難と苦しみの日々における私に、大きな慰めと励ましを与えるものでありましたが、また同時に、大きな問題の提出でもありました。神が私に、どんなにひどいことをなさろうと、キリスト者としての節操を守って、黙って耐えていくことが、信仰というものなのでしょうか。そこには、神の愛を信じる者の、生き生きとした喜びはなく、ただ、暗い忍従のみがあるのです。そして、どんなにひどいことをされようと「受け取っていくのだ」、「耐えていくのだ」という、悲壮感がつきまとって離れなかったということは、問題であったと思います。そのような悲壮感は、けっきょく、自己追求にすぎなかったと思います。恵みにゆだねた者の、勝利でも、平安でもなかったのです。
 ルターにおける隠されたる神が、私にとって、現実の生活の、どのような状況の下において問題となり、また、克服されていったのでしょうか。昭和二十五年から二十九年にかけて、私の一家は、川の中の中州に建てられた、小屋のような小さな家に住んでおりました。その家は、発狂した少女を隔離するために、建てられた家でありましたが、少女が死んで空いていたので、私たちが買って入ったのです。その家で私は胃を患い、貧困と絶望の底に落ちました。毎日、一家心中を口にする日が続きました。特に、大雨になって増水した場合、逃げ道がなくなり、家が流されるかも分からないと思われました。それは、形容することのできない不安でありました。そういう状況の中で、私はルターを学び、ルターによって救われたのです。(詳しくは私のあかし「生きよ」をご覧下さい)
 隠されたる神を信じるということは、私にとって、いつの間にか暗い予想へと思いを馳せながら、そのことに耐えていこうとすることでありました。「流さないで下さい」と祈りながら、「信じる者は、むしろその信仰の故に流されるであろう」という、自暴自棄的な思いに駆られるのです。祈るということは、確かに、人間の願望のままに、神をねじ伏せることではありますまい。「あなたを信じています」と、どんなにあつかましく申し上げたとしても、そのことが、義にして自由なる神のみ前に、特権として通用することもありますまい。「流さないで下さい」と祈る心の底に、そのような暗い思いが、渦巻いていたのです。そして、そのような神に反抗しないことが、信仰であるというような、悲しい思いに満たされていたのです。しかし、信仰とは、はたしてそういうものなのでしょうか。「隠されたる神」に、どうして耐えることができるのでしょうか。
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八 隠されたる神 (後半部)
 昭和二十八年のある日、病んでいた私は、少し体ぐあいのいい日に、杖をついて河原に出ました。そして私は、「お前は救われているではないか。キリストのいのちが、お前には流れているではないか」という、静かなる語りかけを聞いたのです。その日から、私と一家八人の家庭と生活は、すべてを神にゆだねた、平安と感謝の生活にと、変えられていきました。それは、言いかえますならば、キリストの臨在と内住の確信が、与えられたということです。私の心の内に住んで下さる、いのちなるキリストは、私の家庭の中にも居て下さるということが、確信されるようになったのです。
 私の病気、失業、貧困という、最悪の状態は、その後も何年も続きました。しかし、キリストが共に居て下さるならば、そういう日々にも、平安と感謝は失われないのだということを、発見させていただいたのです。神の怒りのわざとしか考えられないような、地獄に落とされるかのような、苦しみの日々をも、暗い心で、悲しげに、耐えていくのではありません。そのような日々にも、生ける主は、共に居て下さるのです。信じる者にとって、主が共に居て下さらないような瞬間はありえないということです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ二三・四三)と、主は、十字架上の犯罪人に言われましたが、そのみ言葉は、また私たちにも、言って下さったみ言葉であったのです。
 ルターは、隠されたる神に耐えました。しかも、生き生きとした感謝と、充実した生命感をもって、隠されたる神に耐え、そして、信じたのです。どうして彼は、隠されたる神を信じ、また、耐ええたのでしょうか。それは、いのちなるキリストの内住、生けるキリストの臨在の確信を、持っていたからだと思います。私もまた、そのことを、生活体験の中で、発見させていただきました。もしそうでないならば、人間というものは、決して、悲壮感を克服できるものではないのです。生けるキリストにゆだねきった、平安なる日々には、将来に対する暗い予感さえも、ゆだねてしまうことができ、忘れてしまうことができるのです。ゆだねるということは、暗い予想や想像を、決して心に持たないで、一瞬一瞬を、ただ主におまかせして、賛美感謝していけばいいのだということを、教えられたのです。
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